2005/01/14/城山にて物思う

モノリス的な石碑

城山からの景観

唐突ですが、前の職場に森君という後輩がいました。この話は前の日記の時にも記載したんですが、リニューアルして消えてしまったんで、もう一回書きなおします。この森君はかつて本能寺で信長に殉死した森欄丸の、あの森家の末裔らしい。森家の末裔の方々は案外大勢いるらしいけども、結構な家柄です(本人はよくわかってないようだけど…)。森家の祖は源氏の出で、徳川家のようなでっち上げの家系図ではなく、どうやらホンマもんらしい。もとは伊勢の毛利ってとこに所領があったんで毛利性だったらしいんだけど、いつのまにやら、「モーリ」が縮まって「モリ」になったらしい。ちなみに中国の銘家の毛利とは無関係です。この森家の産で戦国の雄が、かの森可成(ヨシナリ)です。織田信長のもとで大暴れし戦死。可成の長男は、父親よりさきに戦死しており、次男の欄丸はご存知本能寺の変で殉死。三男坊丸、四男力丸も信長の小姓になっており、本能寺でともに殉死。五男の長可(ナガヨシ、後に忠政)が後を継ぐことになります。長可は豊臣、徳川とうまいこと乗り換えて、江戸期には津山城に封ぜられます。立派な城持ち大名です。これが、森君の先祖にあたるそうです。でもこの森家は四代で取り潰しにあいます。でも、後に家臣団の尽力もあってか、井原のほうに二万石で再興を許されたそうな。あと播磨の三日月にも分家が小藩をつくっていて、その関係か、兵庫のほうにも子孫は多いようです。あと森家の筆頭家臣の関氏が、古くから森家と姻戚関係にあって、森門閥といっても問題ないんですが、この関氏が新見に封ぜられて、新見藩を形成していました。後輩森君のお父さんは新見出身らしく、分家が家臣団として新見藩に仕えていたのかもしてないなぁ、などと推測してみたりします。そうすると、世が世なら俺の領主筋ということになります。 なんで、こんな話をするかというと、今日関氏の陣屋跡の城山へ行って来たからです。今の名称は「城山」だけど、江戸時代は一国一城制なんで備中国には天守を持つ正式な「城」は備中松山城のみです。城山にあったのは正式には陣屋、もしくは単に館と呼ばれていたものです。もとは戦国の頃の新見氏の城でもあったのかと思ってたけど、城山公園の石碑によると、元禄の頃に関氏が築きあげたものらしいです。見晴らしは最高でした。今日はもともと、図書館にでも行くつもりだったんだけど、ついつい寄り道的に行ったら、いつのまにやらこっちが本命になってしまいました。関氏は江戸期を通じ新見藩領主の座を維持し、維新後は、確か子爵になってたように記憶してます。新見には『関侯』なんてお店がありますが、おそらくこの関氏からとったもんだし、あと、『一万五千石』なんてお菓子があるけど、これは関氏の所領の石高。で、城山をあとにして図書館に向かったんですが、途中で案内板を発見し見入ってしまいました。面白い発見がありました。当時の新見藩の藩校が『思誠館』というらしく、今の思誠小学校の場所にあったそうです。ここで教鞭(?)をとっていた丸川松隠とういう高名な儒者がいたそうです。確か、駅前に「ショウイン」ってお店があったけど、ここからとったのかもしれない。俺はついつい吉田松陰のほうを想像してしまってたけど…。この松隠先生のもとで学んでいたのが、方谷駅の由来の山田方谷。確か、方谷(地名は後からついたもんだろうけど)の農家の出だったはず。思誠館で丸川松隠に学び、後に津山藩に出仕して、当時、幕府老中首座だった板倉勝静の右腕となって、幕兵の洋式化に勤め、戊辰戦争に挑むこととなるわけです。新見の歴史も面白いね。その案内板に三日市というのがあって、近そうなので歩いて行ってみようと試みましたが、道がわからず昨日からの歩き通しによる筋肉痛が耐えられず、撤収することにしました。三日市ですが、全国的に『〜日市』という地名がよくあります。安土桃山時代、信長が「楽市楽座」を始めるまでは、市場というのは、あらかじめ領主が地代をとり、決めた場所、決めた日時に開かれいました。三日市というのは、ここで毎月三日に市が開かれいたことからついた地名。なんでも、新見の三日市は中世研究のうえで結構有名らしい。まあ、地元の案内板なんで、地域振興上、大袈裟な表現かもしれないけどね。また、機会があれば行ってみよう。写真は城山陣屋後と、そこからの市内の展望風景。石碑が、なんだか「2001年宇宙の旅」のモノリスを思い出させてしまいます。でも、ここには猿はいません。
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